三囲神社の都市伝説
名称 | 三囲神社 |
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ふりがな | みめぐりじんじゃ |
主祭神 | 宇迦御魂之命 |
創建 | 平安時代 |
住所 | 東京都墨田区向島2-5-17 |
アクセス | 地下鉄「本所吾妻橋駅」より徒歩8分 |
別称 | 田中稲荷、三圍稲荷 |
属性 | 神道、職能・生活、七福神、隅田七福神 |
公式HP | http://www.tokyo-jinjacho.or. jp/syoukai/13_sumida/13018.ht ml |
【都市伝説1】
三囲神社は江戸時代に流行した数多くのパワースポットの本質に迫る好例である。結論からいえば、創建や神像に弘法太師が関わっているという言い伝えには疑問が残る。社伝以外でそのような記録はない。また、宝井其角が俳句を詠んだのと、三井家の江戸進出は伝説と史実では時系列が逆となっている。
【都市伝説2】
上記の真相は闇の中だが、学者の間では「三井家が社伝を創作したのだろう」という説が有力とされている。つまり、こうだ。元々、三囲神社は地元の田の守り神=稲荷神社だった。事実、最初は「田中稲荷」と呼ばれていたという文献が残っている。稲荷神社は室町時代あたりより「米=通貨」という側面がクローズアップ、商売繁盛の神様としての性格を持つようになった。そこで江戸時代になり日本橋越後屋(=三越=三井家)が商売繁盛の神様として鬼門の方角から田中稲荷を勧請し、手厚く祀るようになる。やがて「三囲神社」に名を変えさせ、社伝を創作し、宝井其角に俳句を詠んでもらったというのである。確かに「囲」から「口」を採れば「三井神社」となる。さすがにそれでは露骨過ぎると考えたのだろう。
【都市伝説3】
では、江戸の人々はこの話を鵜呑みにしていたかといえば、そうでもないらしい。江戸時代、この手の話は溢れていたという。「流行り神」「流行り地蔵」など、「それっぽい創建の伝説」と「それっぽい霊験」と共にあちこちの神社仏閣が宣伝活動を行なっていたのである。理由は、寺請制度が大きい。寺請制度とは江戸幕府が戸籍用として、さらに対キリスト教対策として、人々は必ず檀家にならなければならないという制度だ。一度その寺の檀家になれば変えてはならない。そのため幕府に保証された寺社は確実な収入が確保できた一方で、あぶれた寺社や神社は自力で信者を集めなくてはならなくなった。その強力な宣伝活動が「現世利益」と「ありがたい伝説」だったのだ。しかし庶民たちはそんな話を半信半疑ながらもエンターテインメントとして楽しんでいた。そのお気楽さは現代の「都市伝説の楽しみ方」に通じるものがあるといえよう。